2015年02月03日

第9話 糸数城跡

糸数グスクは玉城按司の三男(注①)の居城であったとされ、東側に門(注②)、西側に正殿、南北にそれぞれアザナ(注③)を配する造りになっています。
出土遺物から13世紀(注④)まで遡ることがわかっていますが、石積が整備されたのは14世紀末頃(注⑤)であると考えられています。
また、石積は当初野面積みであったのですが、ある時期に切石を用いた石積へ改築されています。

糸数按司の右腕に比嘉ウチョーという人物がいたそうです。
一人で巨石を持ち上げ橋(注⑥)をかけてしまうほど怪力だったようですが、彼が国頭へ改築の為の資材を買いに行っている間に上間按司(注⑦)が攻め落としたということです。
城壁の切石(注⑧)が一部にとどまっていることは改築途中だったことを物語っています。

さて、糸数グスクの発掘調査で稲福遺跡と共通する土器(注⑨)が出土しています。
これは13世紀頃のもので、人やモノの交流があった可能性を表しています。

また、大城グスクと糸数グスクが石築になったのは同じ時期(注⑩)ですので、この頃社会が緊張状態にあったのではないかと推測されます。
この時期に鉄(注⑪)は貴重な資源から消耗品になっていきます。

注①玉城按司の三男•••『古琉球三山由来記集』の系図では次男と表記されるが詳細は不明
尚、四男は船越按司という伝承がある(船越按司は糸数按司の長男との説もある)

注②門•••城郭用語で虎口(こぐち)という
現在東側に開いた切石の櫓門は改築後のもので、その前はより南のアザナに近い突出した部分にかぎ状門があったと云われている

注③アザナ•••物見台のこと
糸数城跡では南北西にアザナが確認されており北のアザナは海抜180m以上を測る

注④13世紀の遺物•••中国産陶磁器が出土しており青磁の櫛描文碗、劃花文碗・皿、鎬蓮弁文碗や白磁の口禿碗・皿などが出土している

注⑤14世紀の遺物•••中国産青磁の雷文帯碗や無鎬蓮弁文碗を主体とする層上に石積が積まれている

注⑥橋•••西側に裏門がありその外部にかかっている

注⑦上間按司•••真和志間切を管轄していた中山軍(第一尚氏)の大名という見方もある

注⑧切石の範囲•••城門及び城門から北のアザナにかけて、また南アザナは表面が切石の布積で覆われており中には野面積の旧アザナが残っている

注⑨土器•••稲福タイプを呼ばれ糸数グスクでは鉢型Ⅱ類土器と位置付けられる疑似肥厚タイプの土器

注⑩石築の時期•••14世紀終末から15世紀にかけて大城グスクでは野面の石積と共に礎石立ちの正殿が整備されたと考えられる

注⑪鉄•••屋嘉部交差点から糸数へ登る坂はカンジャーヤービラと呼ばれ、名前の通り登りきった場所に鍛冶屋があったというが時代は不明である
鉄は刀子のような日常的に使用するものから釘や鉄鏃のような消耗品になっていった

その他•••糸数グスク周辺には糸数按司がグスク普請時に住んでいたとされる根石グスクや旧集落のサナン村、蔵屋敷跡などがある
またグスクから抜ける旧道も多く、ダキドゥンビラは頂上に旗立石がある
城壁美に優れアザナや南の虎口跡と呼ばれる箇所は朝鮮半島の城に見られる馬面とそっくりな造りをしている
グスク周辺では石器やくびれ平底土器が見つかっており以前から人々の生活があった可能性もある
発掘調査では炭化米や麦も出土している

第9話 糸数城跡
糸数グスクの城壁は本当に美しく大陸との関係を偲ばせます





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Posted by 尚巴志活用MP at 09:23│Comments(0)【連載】南城市の歴史
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