第20話 戦後復興から現在まで

尚巴志活用MP

2015年02月14日 09:10

1945年6月初旬に知念地区が収容所地区に指定され、百名の収容所に多くの避難民が収容(注①)され、厳しい取り調べを受けました。
その為、一時的に人口が集中したことから、知念市が誕生し志喜屋に市役所が設置されました。

佐敷では1946年に新里の高台へ沖縄民政府(注②)が置かれ、復興が始まりました。
津波古では鯨の解体工場や造船所、水産試験場なども整備され、劇場(注③)や料亭(注④)などが賑わいを生みました。
佐敷村は1980年に町制施行されました。

大里は米軍に土地接収されることが無かったこともあって、農産業の復興が早かったようです。
1949年に大里村から分離独立して与那原町が誕生しました。

玉城は現在琉球ゴルフ倶楽部となっている土地に、琉球列島米国軍政府が設置(注⑤)され、沖縄民政府も近かったことから親慶原(注⑥)を中心に沖縄の政治経済の中心地となりました。

戦後の民主主義政治は南城市から始まったのです。

1972年に沖縄は日本に返還され、沖縄県政がスタートしました。
海洋博などに象徴されるように、沖縄は観光産業を中心として第3次産業が台頭し、人口が都市部に集中しました。

しかしバブル経済の崩壊やリーマンショックによって日本は失われた20年と言われる時代を迎えます。
これは戦後、2度の高度経済成長を経てきた生産世代にとって、かつて経験したことのない閉塞感を生みました。

そんな中、2006年1月1日に佐敷町、知念村、玉城村、大里村が合併して南城市が誕生しました。
それは図らずしもハートの形をした東四間切という聖地の範囲でした。
多くの自然景観や文化財を有し、芸能家や芸術家を育み、尚巴志の頃に確立された精神文化を大切にしながら、日本一元気なまちづくりを行っています。
なんじぃもいます。

注①収容所•••地元民は多くが北部の収容所に収容されていた
徐々に解放されて戻って来る者や疎開から帰って来る者もいる中、移民で国外に出る者も多かった

注②沖縄民政府•••現在のユインチホテル南城奥に記念碑があり自転車道から見ることができる

注③劇場•••津波古や親慶原、堀川など多くの地域に娯楽の場として劇場が設けられた
県内でも残っているのは首里劇場ぐらいのもので、南城市に現物は残っていない
南部地区は公設の伊良波尹吉を団長とする梅劇団が活躍し、人々を元気付けた
現在、南城市には2人の人間国宝をはじめ、多くの芸能実演家がおり、古くから残る芸能を楽しむ習慣が今も地域に根ざしている

注④料亭•••現在の馬天港に向かう道沿いには料亭や飲食店が軒を連ねていた

注⑤琉球列島米国軍政府•••この地はキャンプ知念とされ、当初は知念補給部隊を配属していましたが、後に陸軍部隊の住宅地として使用されました。
また、朝鮮戦争時においてはCSGが設置され、地元から多くの従業員を採用したため、地域経済を潤しました。
但し、その一部はCIAの基地で、朝鮮戦争やベトナム戦争の捕虜であったことが復帰直前に明らかになっています。
1974年に全部返還されました。

注⑥親慶原•••銀行や裁判所など多くの施設が集まっており、大変賑わったという
住民も軍に雇用された者が多かったため物資も手に入った
親慶原の県道沿いにあるチャーリーレストランの名称の由来は軍雇用時代のオーナーのニックネームがチャーリーだったからということである


親慶原は基地撤退後に中心地から生活地となり戦後復興の中心地であった名残は見られない






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