第19話 東四間切と戦世

尚巴志活用MP

2015年02月13日 08:30

1879年に琉球王国から沖縄県になって日本化が進みました。
その間日本は大日本帝国憲法を発布し、日清戦争、日露戦争、日中戦争と立て続けに戦争を行い、沖縄県民も1898年に徴兵の対象となりました。
1937年には国民総動員法が布告され、住民は強制従事させられます。

知念半島は九州で組織された独立混成第44旅団が守備(注①)にあたり大里第2国民学校(注②)を司令部として島添大里グスクや糸数グスクなどに陣地を設け米軍上陸に備えました。

また、島添大里グスクには銃砲兵第7連隊も配備され、首里方面を向く砲座壕(注③)が現在も残っています。

玉城国民学校を本拠にする第9師団武部隊が糸数グスクの陣地敷設の際に糸数壕(アブチラガマ)の測量を開始しました。
その後、武部隊は台湾へ移動したので独立混成第44旅団の工兵隊が整備を開始します。
壕口を手彫りで拡げ、通路の整備や兵舎等の建築、炊事場や発電施設の設置を行いました。
1945年2月頃から第15連隊が戦闘司令部として使用しますが、5月には「沖縄陸軍病院糸数分室」となります。
現在は病院の頃の形態で保存されており、脳症・破傷風患者の収容場所や石積、治療室、倉庫などが遺っています。

南城市の背骨とも言える琉球石灰岩台地の内部は鍾乳洞になっており、たくさんの壕(注④)が現在も残っています。
これらの壕は当初近隣住民が集まっていましたが、首里陥落後に日本軍が南下(注⑤)してくると住民を守っていた壕は軍によって取り上げられました。

米軍上陸は琉球が沖縄になってからたった65年後のことです。

注①知念半島の防衛•••独立混成第44旅団(旅団長 鈴木 繁二 少将)は熊本で編成され1944年6月に沖縄へ船舶輸送するために富山丸で航行するが途中で攻撃にあい、壊滅的状況となる
その後、第15連隊が合流し、名護で現地召集を行った
日本軍は嘉手納正面上陸を想定していたものの、知念半島からの上陸の可能性も捨てきれず独立混成第44旅団を配置した

注②大里第2国民学校•••現在の大里南小学校
場所は大里南小学校があった場所で移設後は大里イオンになっている
空襲で全焼したため、司令部は大里グリーンタウンの北側斜面に本部壕を設けて移動した

注③砲座壕•••島添大里城跡北東側斜面に現在も残っている
壕というよりはフィッシャー(岩盤の裂け目)状になっており貫通している
首里側の壕口に琉球石灰岩の平石を積み上げてバリケードを造り、上部には砲首を当てがう窪みがある
残存形態は首里向けであることから5月以降の構築と思われる
内部には近代の陶磁器やガラスなどが散在している

注④たくさんの壕•••狩猟採集の時代には生活の場(サキタリ洞)でり、尚巴志生誕の伝説にも登場する
王朝時代には酒の密造が行われ(サキタリ洞)、屋取集落の貴重な水場(新川)としても活用された
戦世では防空壕として利用された
現在は観光資源となったりしているが一部は利便性の為に壊されているものもある
時代によって用途は変わるが、総じて自然が形成したニュートラルな存在だということを忘れてはいけない

注⑤日本軍の南下•••首里陥落直前、3通りの選択があったと言われている
一つは最後まで首里に残り戦い尽くす、一つは知念半島へ向かう、一つは糸満喜屋武へ向かうということである
結果として八重瀬、糸満喜屋武へ撤退していくことになるが、もし知念半島へ撤退していたら現在の南城市はどうなっていたことだろうか


大里には3月に独立銃砲兵第百大隊が布陣され画像のような八九式十五糎加農砲などが配置された






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