第15話 聖地「東方(あがりかた)」

尚巴志活用MP

2015年02月09日 01:35

東四間切が聖地として見られるようになったのは琉球開闢神話が影響しています。
『中山世鑑』において阿摩美久が創ったとされる御嶽や麦を久高島に稲を知念と玉城にという穀物起源の伝説が軸となり、首里グスク内の園比屋武御嶽(注①)、島添大里グスクの治める範囲であり天女伝説がある与那原の御殿山(浜ヌ御殿)や親川、第一尚氏のルーツである場天御嶽や佐敷上グスクを拝んでいました。

『球陽』(注②)の記述から第一尚氏の頃には既に行われていたことがわかりますが、上記の観点からすると尚巴志の頃には行われていたのではないかと考えられます。

国王は麦のミシキヨマ(初穂祭・2月)の際には久高島へ、稲のミシキヨマ(4月)の際には知念・玉城へ行幸し、国家安泰と五穀豊穣の祈りを捧げていました。
これが今日伝えられる東御廻り(注④)の元になったものです。
尚、島添大里グスク辺りが入っていないのは恐らく現役として使用されていた(注③)からではないでしょうか。

尚真王の頃になると神女組織(注⑤)が整備され、その頂点を聞得大君としました。尚真王の妹が初代聞得大君です。
その就任式が御新下り(注⑥)という儀式で、首里グスクから斎場御嶽まで行列をつくって向かい、深夜になると斎場御嶽(注⑦)内で儀式が行われました。
このように、琉球王国において東方は聖地とされ特別視されてきました。これは今も残る沖縄の精神文化であり、尚巴志が大切にしてきたものでもあります。

注①園比屋武御嶽•••首里グスクの北西に隣接する森一帯で現在は石門だけが復元されて
残る
東御廻りにおける国王の安全祈願や御新下りにおける聞得大君の首里グスク登城で拝まれる

注②『球陽』•••第二尚氏の頃に琉球王国の正史として編まれた書物
蔡温本『中山世譜』を踏襲する

注③島添大里グスクが現役•••発見された雲板には尚泰久の銘が刻まれており、その頃に寄
進されたものだとわかることから雲板を鳴らす意味があったのだとされる

注④東御廻り•••園比屋武御嶽→御殿山→親川→場天御嶽→佐敷上グスク→テダ御川→斎場御嶽→知念グスク→知念大川→受水走水→ヤハラヅカサ→浜川御嶽→ミントングスク→玉城グスク

注⑤神女組織•••農業の伝来でグスクを中心とした共同集落が出来上がってくると按司という支配者が登場する
その按司が政治を行う際に宗教的祭祀儀礼を執り行うのがノロである
男性より女性が霊力(セジ)を持つとされ按司とイビをつなぐ存在となった
第一尚氏は場天ノロや佐敷ノロなどの存在が大きい
第二尚氏の尚真王の頃になると聞得大君−大あむしられ−各地のノロという組織が確立する

注⑥御新下り•••聞得大君御殿を出発→園比屋武御嶽で儀式をして歓会門から城内へ→淑順門からおせんみこちゃに入り国王から杯をもらう→継世門を出て百人余りの行列が赤田から出発→コバツカサ御嶽で拝み→御殿山で式と昼食→親川・与那古浜で拝み→津波古御仮屋で休憩→屋比久兼久仮屋で休憩→ユックイヌヒラ越え→斎場御嶽到着→大庫理、寄満、三庫理、チョウノハナ、シキョダル雨ガ美水、雨ダユルアシカ美水へ祈願→大庫理の神座につき儀式→御待御殿で食事と仮眠→神遊び→斎場御嶽を出発→知名崎御仮屋で休憩→聞得大君御殿到着

注⑦斎場御嶽•••尚真王の頃に琉球最高の聖地として整備されたと考えられているが、発掘調査では弥生式土器が出土しており狩猟採集の時代から人々の生活があったことがわかる
三庫理出土の金の勾玉は国宝となっている


































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