第14話 尚泰久王と子どもたち

尚巴志活用MP

2015年02月09日 01:23

尚泰久は第一尚氏第6代王です。
尚泰久王が即位する以前の1453年に先代で長虹堤(注①)を築いた尚金福が亡くなり、その子の志魯と弟の布里が争い(注②)、首里グスクは焼失してしまいました。
その後、布里は現在の南城市玉城當山に隠れ住んだとされており當山に墓があります。

尚泰久はダークホースとして即位しますが、「護佐丸・阿麻和利の乱」(注③)で妻の父親である護佐丸を倒したため、長男の安次富金橋、次男の三津葉多武喜、四男の八幡加那志との折り合いが悪かったと云われています(注④)。

三人は叔父の布里を頼って玉城に田舎下りし、安次富金橋が安次富グスク(注⑤)を、三津葉多武喜が大川グスク(注⑥)を造り住みました。
一方、四男の八幡加那志は豊見城按司が築城しかけていた仲栄真グスク(注⑦)を継ぎ築城したと言われています。
その後、金丸(注⑧)に鬼大城(注⑨)が討たれたため、妻で尚泰久の娘であった百十踏揚(注⑩)も兄を頼って玉城に逃げてきたとされています。
尚泰久の墓も明治頃に富里へ移されました(注⑪)。

仲栄真グスクの試掘調査(注⑫)によると礫敷遺構が検出されており、遺物から15世紀〜16世紀頃と考えられています。また、馬上杯(注⑬)やキセルなども出土しており、位の高さがうかがえます。

注①長虹堤•••当時海で隔てられた首里グスクと那覇港を冊封使が行き来しやすくする為に造られた
尚金福王が国相懐機に命じて現在の松山2丁目から崇元寺あたりにかけて造らせたアーチ型石橋を7座持つ海中道路

注②志魯・布里の乱•••尚金福王の跡目を息子の志魯と弟の布里が争い志魯が首里グスクに火をつけ正殿を焼失したと云われている

注③護佐丸・阿麻和利の乱•••勝連グスクの阿麻和利は当時強大であり首里を脅かすほどであったが間に中城グスクの護佐丸がいてなかなか手出しできなかった
そこで阿麻和利は尚泰久に護佐丸が謀反を企んでいて兵を鍛えていると進言し部下が確かめに行くと確かに兵馬を鍛えていたことから阿麻和利を筆頭に護佐丸討伐を行った
しかし兵馬を鍛えていたのは阿麻和利を警戒するためであった
阿麻和利の企みに気づいたのはその妻で尚泰久の娘である百十踏揚と付き人の大城賢勇(鬼大城)であった
鬼大城を総大将として首里軍は勝連グスクを取り囲むがなかなか突入できない
すると鬼大城は女装して潜入することに成功し阿麻和利を討った
その後、鬼大城と百十踏揚は結婚するが金丸の蜂起により鬼大城は倒された
以上が一般的に語られる「護佐丸・阿麻和利の乱」であるが、明治期に田島利三郎や伊波普猷が問題提起を行っている

注④折り合い•••三男の尚徳を王に据えたことも関係していると考えられる

注⑤安次富グスク•••當山と富里の境界にある点滅信号を奥武島へ向かうように曲がると左に位置する
石積などは確認されていない
後方に墓があり父の尚泰久の墓と並んでいる

注⑥大川グスク•••安次富グスクの斜め向かい辺りに位置する
石積などは確認されていない

注⑦仲栄真グスク•••『富里誌』によると尚泰久王の頃に豊見城按司が富里にやってきて築城したとされているが発掘調査では14世紀後半頃の遺物も出土していることからそれ以前より人の生活があったと考えられている
南城市陸上競技場の駐車場部分に遺構が残る

注⑧金丸•••後の尚円王で伊是名島から出て尚泰久が越来王子の頃に仕え首里の役人にまで出世し尚徳王の頃に革命を起こして第二尚氏王統を立ち上げたとされる

注⑨鬼大城•••大城賢勇、越来賢勇ともいう
「護佐丸・阿麻和利の乱」以後は越来親方となり越来間切の総地頭職に就く

注⑩百十踏揚•••尚泰久王の娘で勝連グスクの阿麻和利が勢力を誇っていたことから政略結婚させて懐柔策を図ったと考えられる
南城市陸上競技場近くの岩盤に兄の三津葉多武喜と一緒に入った墓がある

注⑪尚泰久の墓•••玉城農協の向かいに岩盤を彫り込んで造られている
金丸の革命時に天山陵から読谷に移ったが、その後石川伊波に移動して現在に至る

注⑫試掘調査•••仲栄真グスク内の主要部分(八幡加那志の住居跡?)と考えられる主ヌ前殿内に2箇所の調査ピットを設けて実施したところ第2層上に礫を敷いた遺構が検出された
これは雨天時に歩きやすくするためと考えられている

注⑬馬上杯•••文字通り馬の上で酒を飲んだりする為の杯
出土したのは中国産の青磁である
出土例は少なく大変貴重なものであったことが推測される


尚泰久王の墓は意外になんだかわからない場所にありますよね






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