大城城跡は玉城按司の次男が築城したと云われています。
4つの郭から成り、主郭に礎石立ちの正殿とイビを有し、南側に正門のある二の郭、北側に按司の居住空間と考えられる三の郭、東側に火の神を祀る四の郭があります。
各郭は石垣によって区切られています。
最盛期は14世紀後半から15世紀前半(注①)で、礎石や石積はこの頃に造られたと考えられています(注②)。
発掘調査によると正殿は火災により焼失した可能性が高いと考えられます(注③)。
さて、そのすぐ近くに稲福遺跡群があります。
発掘調査の結果12世紀頃に造られた初期のグスクであり、按司を中心に水田を営みながら祭祀儀礼を行い、周辺の間切と緊張状態にあったことがわかってきました(注④)。
この遺跡は14世紀頃まで続きます。
文明の大転換を経て、人々は丘陵上にグスクを造り、農業を行いながら按司を中心に共同体を構成していった様子がうかがえます。
14世紀に覇権は大城グスクへ移りますが、玉城按司の次男と稲福遺跡の集団との間に摩擦は無かったのでしょうか。
また、島添大里按司と争った大城按司真武(注⑤)は稲福とどのような関係を築き、戦場となった稲福原、長堂原はどのような位置付けだったのでしょうか。
注①最盛期•••『南東風土記』によると1408年に中山王思紹(尚巴志の父)の遣使で大城按司(阿勃吾斯(古)→おーぐしくの当て字)が中国へ渡っていたような記述が指摘されており貿易において利権を得ていた可能性がある
実際に出土遺物は首里グスクと類似するものがあり力の大きさを表している
注②礎石や石垣•••最盛期と思われる礎石の下からはそれ以前のものと考えられる柱穴(?)が検出されており、それ以前に建物があった可能性がある
出土遺物は量として14世紀から15世紀のものが多いものの13世紀頃の遺物もある
尚、玉城按司の三男が築城したと云われる糸数グスクも13世紀まで遡る可能性があることから島添大里按司と戦ったとされる大城按司真武は大城グスクを築城した人物とは別人の可能性もある
注③火災••前回書いた島添大里按司との合戦で城に火を放ったという話を裏付けるように正殿の発掘調査で焼土のブロックや赤く焼けた礎石が確認されている
だとすると思紹の使いで中国へ行っていたのは真武よりも後の人物であろうか
かなり飛躍するが組踊「大城崩」の内容を後日談と置き換えれば真宗の可能性もある
注④稲福遺跡群•••「上御願地区」で発掘調査が行われた結果、イビである岩石を背後にして正殿と考えられる大型建物跡、御庭、倉庫跡、鍛冶場などの遺構が検出され、農耕を裏付ける炭化米や麦、祭祀道具と考えられる鏡や玉類、鉄製の武具、12世紀から14世紀の幅を持つ陶磁器類などが出土している
「稲福殿地区」では15世紀以降の遺物が確認されており「上御願地区」より後に発展的拡がりを見せた形跡である可能性がある
注⑤大城按司真武•••14世紀後半から15世紀に活躍した人物とされている
『遺老説伝』によると尚巴志の祖母は真武の妹(娘?)であったことから琉球王朝においてもその家系は重用されたと考えられる
島添大里按司との合戦で大城グスクに火が放たれた後稲福で自害し、真武の墓は県指定建造物となっていてその形状からボーントゥ墓と呼ばれている
麻氏の祖でありこの家系には有名な儀間真常などがいる
大城グスクは歴史的に重要な史跡で南城市における最後の国指定候補